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筑豊(1)-風化していく旧炭鉱町

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福岡県の内陸部。通称「筑豊」と呼ばれていたこの地方では
明治から昭和30年代にかけて、石炭の採掘が盛んに行われていた。
この地方には多くの炭鉱が存在し、全国から鉱業労働者とその家族も集まった。
最盛期(昭和15年頃)では、150あまりの炭鉱が存在し、約72万人が住んでいたという。
石炭を輸送するための鉄道網が、縦横に通り、鉱山の巨大な鉄のやぐらや煙突が建ち
それを取り囲むように炭鉱住宅が並び、そこに小さな都市ができていった。

福岡の片田舎となってしまった今では、想像もつかない風景が存在していた。

かつて日本でもっとも賑わっていたといわれている筑豊…。
日本の石炭エネルギーを生み出す場所となり、戦後の高度経済成長を支えたものの、昭和30年代の「エネルギー革命」(動力となる燃料を、石炭から石油に転換すること)を境に、鉱山は次々閉山され、鉱山労働者は筑豊から都会へ去り、学校では生徒数が激減し、人の姿が次々と消えてしまった。
あれから50年近く経った現在、筑豊では何が起こっているのだろうか。
★街道脇に今も残る50年前の姿★


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かつては「筑前」と「豊前」の国にまたがり、現在の福岡県飯塚市、田川市、嘉麻市などを中心とした「筑豊」地方では、炭鉱を中心にした町や地域がいくつもできていた。
炭鉱は閉山してしまったが、その時代を伝える遺産が、さまざまな形で残っている。

その一つが「(旧)炭鉱住宅」だ。

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ご覧のとおり、今風の住宅ではない。
トタンと木材でできた外壁に、瓦屋根を乗せた長屋は、まるで昭和30年代を想像させる。
というより、その頃から生き残っているのだ。
多くは消滅してしまったが。

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その多くは、今でも人が住んでいる。
炭鉱の社員のための住宅だったので、炭鉱の元労働者がそのまま住み続けているところもある。
今でもこうして生活感が漂っている。

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(小竹町七福付近)

ここも炭鉱住宅。戦後になってから急速にこのような団地型の住宅が多く建つようになった。
今では公営住宅となっているものもある。
屋上の貯水タンクが、時代を感じる。

しかし、これらの写真を見てきたが
どうも人の気配がほとんどしないのはなぜだろうか…?

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(宮若市石炭記念館付近)

公園では、子供の遊ぶ姿が見えない。
雨の後の曇りの日、という天候もあるのだろうが、それにしても気配がしない。

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旧炭鉱の町では、閉山後に労働者とその家族が流出し、その地に残った人が今でもこうして住み続けたまま、高齢化を迎えている。
主要な産業である鉱業もなくなり、雇用の受け口が激減したこの地方では、人口が増加することはなく、町では人の気配が消えていったのだ。

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(宮若市磯光付近)
雇用の受け口が少ないためか、生活保護を受給する人の割合も多い。
04年度では福岡県が全国4位の受給率だったが
それを引っ張っているのは、田川郡をはじめとする筑豊地域である。
地区によっては、2割程度の生活保護受給率の場所もある。

閉山後の「産炭地域振興臨時措置法(産炭法)」による筑豊の救済により、食をつなぐことはできたものの
その法律は平成13年に失効し、頼りの命綱は生活保護となり、受給者がどっと増えたという。


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かつて炭鉱住宅のある地域では、貧しかったので、近隣の住民が助け合って生活していた。
しかし、閉山後は櫛の歯の欠けたように、地域から人が流出したため、支えあう相手もいなくなり
仕事もなくなった地域で、孤立していく人が残った。


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このような地域では、まるで山間部の限界集落のように
高齢化や増える生活保護受給による財政圧迫などによって
人の暮らしの場が徐々に崩れ、炭鉱の遺構を残したまま人だけが消滅してしまうのだろうか。

筑豊にはいくつもそういう地域が存在する。


★よく見れば昔は炭鉱だった場所★

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(宮若市旧宮田町)

旧宮田町にあるこの池。
住宅地に囲まれ
フェンスで囲まれて立ち入り禁止になっているが
実はここも昔は炭鉱だった。

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貝島炭鉱」という、筑豊指折りの炭鉱だったという。
炭鉱といえば、穴を掘り進んで採掘するのが多いが
貝島炭鉱では、「露天掘り」という地面の表面を直接掘り下げて採掘する方法が取られた。
約300m四方に、深さ数十メートルの巨大な穴がかつては存在したのだ。

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貝島炭鉱は、1976年(昭和51年)に閉山し、これをもって筑豊の炭鉱はすべて閉山した。
今では水が張って池となり、草が池を覆って伸び放題となり
「貝島本社」というバス停が建っていることくらいしか
ここがかつて炭鉱だったという糸口がなくなってしまったのだ。

その後、旧宮田町にあった炭鉱の跡地は工業団地となり、1992年にはトヨタ自動車の工場が誘致された。
九州屈指の自動車産業の町として名をはせたものの
この町では、いまだに炭鉱の影を垣間見ることができる。


★石炭記念館から見える当時★


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宮若市旧宮田町に「宮若市石炭記念館」という施設がある。
操業当時の炭鉱とその周辺の様子を伝える展示物が、数多く展示されている。

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石炭記念館は、廃校となった小学校の校舎を利用して運営されている。
閉山後、働く親が仕事を求めて筑豊を去るため、小中学校では転校生が増え、生徒数が減り
小中学校では、廃統合が行われ、廃校になるところも多かったという。

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展示室の一つ。
小学校の教室をそのままに再現し、当時の学校にあったものが残されている。
黒板の右半分には、廃校前の様子を写した写真が貼られている。

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昭和30年代の学校がそのまま使われているだけあって、戸などがレトロである。
階段の踊り場では、坑道の様子が再現されている。
また、炭鉱労働者や炭鉱町などの様子を描いた絵画を展示する部屋もあった。
途中で暗いタッチの絵が増えていくのは、時代の流れと平行しているからだろうか。


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4回シリーズでお届けするアゲインスターズ的筑豊。
第2回目は、今では見られなくなった風景の跡を、「廃線」からたどってみたい。

つづく!



本日のまとめ


・筑豊には、半世紀も時が止まっている場所が多くあります。
・炭鉱の閉山を境に、町が衰退していきました。
・炭鉱住宅は昭和30年代を思い起こさせます。
・生活保護を受けている人は全国トップクラスです。
・産業構造が変わると、街は急に凋落しはじめます。





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[ 2013/09/20 13:17 ] [ 編集 ]
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[ 2014/07/30 22:56 ] [ 編集 ]
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